2011年8月12日金曜日

noblesse oblige(ノブレス・オブリージュ)

エリートとは自他共に認め、この国を左右する力量が十分に備わった人達だと信頼している。
しかし、その才能を私利私欲の為に使っている日本のエリート達を見ていると悲しくなってくる。

欧米のエリート達は、エリート意識が伝統的に受け継がれている。

「ノブレス・オブリージュ」とは一言で言えば「エリートとしてのプライド」とでも言えばいいのだが、日本においては語弊が多く、もう少し説明を加えるのであれば、高い地位に対してふさわしい責任を持つというプライドである。

身分が高いことに対して特権が与えられるが、その代わりにそれ相応の義務を果たしていただくという考え方である。
極端な例ではあるが、戦争になると祖国の為に先頭に立って最前線に立って戦うため、死傷率が一番高いのはこのエリート層だというよう
な事がある。
どうも日本のエリートを含め、高い地位についた人々の中にお金を第一と考える拝金的な割合が多い。

今我が国に戦争が起こっ
ても、日本の「エリート」の人々がお国の為に最前線で戦う姿は想像できない。


時代は常にエリートを作り出そうとする
明治以降であれば軍
人、戦後であれば学歴をベースとした官僚やサラリーマン。
でも、絶えずその時代が成熟し、変化を余儀なく迫られるのは、そのエリート達が時代のスピードについていけないからではないか。

エリートは頭が良く一番安定したポジションにいて守られているために、危機意識が極めて薄い。

様々な分析・戦略立案能力や論述に長けていても、なかなか現実に反映させられない。

実行に移そうとしても、現実と現場の気持ちが分からないから人がついてこない。

時代が大きく変わる時、エリートがそこにいたためしがない。
戦後の焼け野原の中で、トヨタ・ホンダ・ソニー・松下の創業者達は必死になって働き、仲間を大切にした。

日本の強さの一つは「ものつくり」にあるといわれて久しい。

そして、戦後の安定は中小企業の底力があってのこと。一昔前ならベンチャー企業。

官僚もメディアも金融も、彼ら
の土台があってのこと。
しかも上記の人々はリスク
や泥をかぶる事を嫌う。
それぞれの役割があって必要ではあろうが、できれば天下を掴む人間は、

一個の気持ちと物事の本質が理解でき、実行に移せる勇気と信頼を持ってもらいたいものだ。

論じに勝てる技術を
持ったエリートよりも、個人として尊敬されるような人間が国際舞台の交渉に立ってもらいたいものだ。
本田総一郎氏や盛田氏は「人の気持ちが分かる」といった側面以上に、したたかさがあったと思う。
人の気持ちが分かるばかりでは、いや分かるからこそ決断や先見性が鈍ることが多くある。

経営者こそそういうことがいえると思う。

ただ、あえていうな
ら、目的は動機が規定する。
動機の本質が何であるかであり、そこに使命とも関係してくる。
くだらない動機で本気なっている人間が沢山いる。一番の社会悪とは、えてしてそういうものだ。

エリートとは
本来エリートとは使命感を持ったリーダーのことであり、欧米におけるエリートのもともとの意味であると思う。
欧米のエリート思想の背景には、貴族社会がつくりだした「ノブレス・オブリージュ」が原形にある。
食べることに困らない貴族たちがそれ以上の価値観を求めて、人間の美意識がどこまで高めていける
かという世界。(武士道もこれに近い)
一方で、一番貧困な人々と共に生きることで、そこに神を見出し、不条理な現実と自分と
を一元化していくことで極めていく世界がある。 これがガンジーやマザー・テレサの世界。
いずれの違いはあるにせよ、そこには確かに「使命」が存在する。

その「使命」を持った人
間をエリートと定義するなら大賛成だ。
吉田松陰は先生というよりも現役のテロリストだった。
黒船が来ればそこに乗り込むし、現に牢屋に入れられて処刑されている。
松下村塾は、
仕組みではなくて、松蔭の生き様が自然に人を集めさせたのだと思う。
また、幕末の名士・竜馬
は、彼のキャラクターではなく、彼が海や時代の向こうに何を見ていたか...
坂本竜馬というフィルターを通じて見る世界観・宇宙観が重要であり、そこを捉えずしてあの時代の意思・本義・真髄を理解することはできず、また自らの「使命」も自覚することもできないであろう。
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世紀の維新は、意識の解像度を上げること=脳のOSのバージョンアップである。
使命は、教えたり教わったりするものではなく、背中で見せるもので、そこに集まる集団は、その使命を共に果たすために集まるのではないだろうか。

A.I