稽古とは
一よりならい 十をしり
十よりかえる またその一
千利休の句は、稽古事で師範から説かれるものであるが、
これには、人生の道のりとその歩み方が内包しており、
そして「理」をも観取することができる。
利休は、茶人・茶聖とも称せられ、
何も削るものがないところまで無駄を省いて緊張感を作り出すという、
わび茶(草庵の茶)の完成者として知られる。
稽古の「稽」とは、古(いにしへ)を稽(かむがへ)ることである。
古(いにしえ)を稽(考える)という意味であり、
昔の教えあるいは根本にある教えを考えることであり、
転じて学問を行なう、技芸の修練をするという意味になった。
武芸の稽古では、主に「型」を学ぶ。
型はその流儀の先人達が考案した理法に基づいて形成された方法・様式であり、
その流儀を特徴づけるものである。
また、稽古は修行という概念にも通じ、技術的向上と共に精神的鍛錬という意味合いも強い。
そのため、武芸は日本における価値観・哲学とも言われ、
一つの物事を通じて生き様や真理の追究を体現することや、自己の精神の修練を行う事ともされる。
「残心」に代表される日本独特の所作や価値観を内包している。
稽古とは、「道」の追求でもある。
武道をはじめ芸道では、「その技を磨く稽古を通じて人格の完成をめざす」といった「道」。
道とは、「首」と「しんにょう(しんにゅう)」からなり立つ。
「首」は人間であり、「しんにょう」は「止る」と「行く」という字の組合せである。
「道」とは人が行きつ戻りつするところであり、
そこから転じ、人が何べんも同じことを反復思考して得た最高至善のものを「道」という。
中国哲学上の用語の一つに、道(どう・タオ・Tao・みち)の思想がある。
人や物が通るべきところであり、宇宙自然の普遍的法則や根元的実在・道徳的規範・美や真実の根元などを広義とするものであり、道家や儒家によって説かれた。
荘子は、「宇宙を支配する原理を道という」と言っている。
南泉禅師は、「平常心是道」と答えている。
老子は、「道とは名付けることのできないものであり、礼や義などを超越した真理」とし、
「天地一切を包含する宇宙自然、万物の終始に関わる道を天道」「人間世界に関わる道を人道」と言った。
孔子は、天道を継承し、詩経・書経で人道についても語り、
「子曰 朝聞道 夕死可矣」「子曰 參乎 吾道一以貫之哉」(論語)といった名句に道義的真理があり、
天地人の「道」を追究した姿勢が伺える。
「人道」とは、人間として守るべき道のことであり、「人の人たる道」とも言われる。
道教における「道」は、神秘思想の上に取り入れられ、道家の概念とは離れたものとされたが、
近年フランス学派の学者達を中心に道家と道教の連続性を認める傾向が多くなってきている。
仏教の「六道(ろくどう、りくどう)」とは、
迷いあるものが輪廻するという、6種類の迷いある世界のこと。
「悟り」とは、知らなかったことを知ること、気がつくこと、感づくことを言い覚りと書き、
宗教上の悟りは迷妄を去った真理やその取得を言う。
表現はいろいろと異なっても、
「天の命ずるこれを性といい、性に従うこれを道という」という、中庸の表現が明解・適切ではないか。
誰もが一を歩み出し、階梯を登るごとく十へと向かっていく。
それはあらゆるものの成長にとって必要な過程なのだろう。
だが創造的な過程は、
実は「十」から再び「一」に戻るところにあるのではないか。
「創造」とは「破壊」なくしてはありえない。
一は一であるが、けして同じ一ではない。
十から一へと戻る過程で、他には還元不能の特別な一が見出される。
最初の一歩は、取りあえずのものであったり、自覚なきものであったりもする。
十まで辿り、逆を辿り戻った時に、初めて自分の一歩を自覚したり、それがどのようなものであったかがわかる。
十より一へ返るという過程は、やはり壊すことなしにはありえない。
そこには、創造的破壊により新陳代謝が起きている。
道のりとは、道を歩むとは、おそらくそういうことではないか。
A.I