熱い日が続きますが、皆さんいかがお過ごしですか?
私の田舎は福島県の二本松なのですが、毎年恒例の家族全員でのお墓参りを今年は12日の朝6時に出発して行ってまいりました!
そんなに渋滞はないだろうと思っていましたが、何と8時間もかかってしまい大誤算・・・
実家は農家を営んでおりますが、今回の原発の風評被害でみんな元気がなく、今後を不安に思っており、何とも言えない気持でしたが、久しぶりに会えた従兄なども含め楽しい時間を過ごしてきました。
渋滞のお陰で、あまり長くは居られませんでしたが、お墓に手を合わせる事が出来て何かまた元気を沢山もらう事が出来ました!
その足で、今度は4時間かけて軽井沢に行き、一泊して戻ってきたのですが、何と帰りの横川パーキングで、私の前を老人会の方が通り過ぎまして、よくよく見るとCJ会の長老。I先輩じゃ~ありませんか!?
そのままやり過ごそうとも思ったのですが、一応声をかけたら案の定、くだらない話に長々と付き合わされまして、せっかくの良い気分が台無しになりました・・・
翌日からは毎日リハビリです・・・
以上、アカンかった話でした。
Iさん!呪いだけは掛けないでくださいね・・・
しげる
2011年8月12日金曜日
noblesse oblige(ノブレス・オブリージュ)
エリートとは自他共に認め、この国を左右する力量が十分に備わった人達だと信頼している。しかし、その才能を私利私欲の為に使っている日本のエリート達を見ていると悲しくなってくる。
欧米のエリート達は、エリート意識が伝統的に受け継がれている。
「ノブレス・オブリージュ」とは一言で言えば「エリートとしてのプライド」とでも言えばいいのだが、日本においては語弊が多く、もう少し説明を加えるのであれば、高い地位に対してふさわしい責任を持つというプライドである。
身分が高いことに対して特権が与えられるが、その代わりにそれ相応の義務を果たしていただくという考え方である。
極端な例ではあるが、戦争になると祖国の為に先頭に立って最前線に立って戦うため、死傷率が一番高いのはこのエリート層だというような事がある。
どうも日本のエリートを含め、高い地位についた人々の中にお金を第一と考える拝金的な割合が多い。
今我が国に戦争が起こっても、日本の「エリート」の人々がお国の為に最前線で戦う姿は想像できない。
時代は常にエリートを作り出そうとする
明治以降であれば軍人、戦後であれば学歴をベースとした官僚やサラリーマン。
でも、絶えずその時代が成熟し、変化を余儀なく迫られるのは、そのエリート達が時代のスピードについていけないからではないか。
エリートは頭が良く一番安定したポジションにいて守られているために、危機意識が極めて薄い。
様々な分析・戦略立案能力や論述に長けていても、なかなか現実に反映させられない。
実行に移そうとしても、現実と現場の気持ちが分からないから人がついてこない。
時代が大きく変わる時、エリートがそこにいたためしがない。
戦後の焼け野原の中で、トヨタ・ホンダ・ソニー・松下の創業者達は必死になって働き、仲間を大切にした。
日本の強さの一つは「ものつくり」にあるといわれて久しい。
そして、戦後の安定は中小企業の底力があってのこと。一昔前ならベンチャー企業。
官僚もメディアも金融も、彼らの土台があってのこと。
しかも上記の人々はリスクや泥をかぶる事を嫌う。
それぞれの役割があって必要ではあろうが、できれば天下を掴む人間は、
一個の気持ちと物事の本質が理解でき、実行に移せる勇気と信頼を持ってもらいたいものだ。
論じに勝てる技術を持ったエリートよりも、個人として尊敬されるような人間が国際舞台の交渉に立ってもらいたいものだ。
本田総一郎氏や盛田氏は「人の気持ちが分かる」といった側面以上に、したたかさがあったと思う。
人の気持ちが分かるばかりでは、いや分かるからこそ決断や先見性が鈍ることが多くある。
経営者こそそういうことがいえると思う。
ただ、あえていうなら、目的は動機が規定する。
動機の本質が何であるかであり、そこに使命とも関係してくる。くだらない動機で本気なっている人間が沢山いる。一番の社会悪とは、えてしてそういうものだ。
エリートとは
本来エリートとは使命感を持ったリーダーのことであり、欧米におけるエリートのもともとの意味であると思う。
欧米のエリート思想の背景には、貴族社会がつくりだした「ノブレス・オブリージュ」が原形にある。食べることに困らない貴族たちがそれ以上の価値観を求めて、人間の美意識がどこまで高めていけるかという世界。(武士道もこれに近い)
一方で、一番貧困な人々と共に生きることで、そこに神を見出し、不条理な現実と自分とを一元化していくことで極めていく世界がある。 これがガンジーやマザー・テレサの世界。
いずれの違いはあるにせよ、そこには確かに「使命」が存在する。
その「使命」を持った人間をエリートと定義するなら大賛成だ。
吉田松陰は先生というよりも現役のテロリストだった。
黒船が来ればそこに乗り込むし、現に牢屋に入れられて処刑されている。
松下村塾は、仕組みではなくて、松蔭の生き様が自然に人を集めさせたのだと思う。
また、幕末の名士・竜馬は、彼のキャラクターではなく、彼が海や時代の向こうに何を見ていたか...
坂本竜馬というフィルターを通じて見る世界観・宇宙観が重要であり、そこを捉えずしてあの時代の意思・本義・真髄を理解することはできず、また自らの「使命」も自覚することもできないであろう。
21世紀の維新は、意識の解像度を上げること=脳のOSのバージョンアップである。
使命は、教えたり教わったりするものではなく、背中で見せるもので、そこに集まる集団は、その使命を共に果たすために集まるのではないだろうか。
A.I
2011年8月9日火曜日
とっても壮大な話 広瀬
2011年8月6日土曜日
目撃者の眼
1999年現在76歳になるジョー・オダネル氏は、アメリカ軍の報道写真家として第2次世界大戦後の日本を撮った。この写真は、原爆が落とされてまもなくの1945年9月、廃墟の長崎で写されたものだ。
以下は、彼がこの写真を撮ったときの回想インタビューからの引用。 佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。
すると白いマスクをかけた男達が目に入りました。
男達は60センチ程の深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。
荷車に山積みにした死体を石灰の燃える穴の中に次々と入れていたのです。
10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は当時の日本でよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。
しかも裸足です。
少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。
背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。
少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に初めて気付いたのです。
男達は幼子の手と足を持つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。
まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。
それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。
真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。
その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気が付いたのは。
少年があまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。
夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました
「昭和16年夏の敗戦(猪瀬直樹著)」を再読。
開戦前のシミュレーションで、日本の若きエリートが対米戦必敗の結論を出したが、日本は開戦する。
必敗が分かっていながら合理的判断より空気を読む事を好む日本人の特性...
ダメだとわかっていても、全員で敗北に向かって突っ走る...
上の者は責任の追求を恐れて言い出せない。下の者へは精神論で頑張らせる。根本的な問題には目を向けない。
あの時代の人間の必死さに感服すると同時に、盲目(盲昧)に陥る怖さを知る...
「日本の意思決定に欠けているのは、今も昔も、ディテールの積み重ね。ディテールにこそ、神は宿る。」
「この作品で、ディテールを積み重ねれば真実にたどり着くという希望を語りたかったのです。」
著者のくだりが印象的。
自らが受けた教育の歴史認識の違い、自らが創りだしている思考や観念の深さと特性(加速度の速さ・硬直度の強さ)と、それが物事の判断基準と行動規範・様式となっていることをあらためて認識する。
しかし、それが全てでも正解でもなく、その観念は単なる一個のものでしかない。そして古いものでもある。
道は無数にあり、そこには矛盾も不条理も常にある。
我々は、常に混乱や恐怖、みじめさを取り除こうと必死であり、それ自体を「理解」しようとはしない。
「理解」とは、険しくカオスであるが、崇高である。
重要なのは、自分自身そして全てを「理解」することである。
くしくも66年前の今日、広島に原爆が投下された。
正しい歴史認識の大切さを改めて痛感する。
A.I
2011年8月1日月曜日
ボランティア・・・shuji
5回目のボランティアから昨夜もどりました!
今回は陸前高田で24日~31日の八日間 ガッツリやりました。
でも まだまだやりたいです・・・ 状況は悲惨なままだから・・・
確かにライフラインは良くなって来ていました。
でも ちょっと幹線道路から外れると 手つかずだったりします。
だから また時間を作り
ガレキ撤去・ヘドロ撤去・用水路のゴミだし・解体作業・
養殖用の牡蠣のイカダ作り・枯れ木の伐採・・・・・また何でもやりに行きたい!
ただ 今回の地震と豪雨は・・・焦りましたね・・・
ほんの少しでも
みんなが
出来ることを出来るだけ!
このスタンスを忘れずにみなさん行きましょうね~
現地に行くことが大切なのではなく身近で出来る後方支援の大切さ!
身に染みて感じた日々でした。
サポートしてくれたスタッフ達に 感謝!
それと・・・CJ会のメンバーの方へ
一緒にボランティアに行きたい人はお声かけください!
鬼軍曹喜んで参上しますので。。。
今回は陸前高田で24日~31日の八日間 ガッツリやりました。
でも まだまだやりたいです・・・ 状況は悲惨なままだから・・・
確かにライフラインは良くなって来ていました。
でも ちょっと幹線道路から外れると 手つかずだったりします。
だから また時間を作り
ガレキ撤去・ヘドロ撤去・用水路のゴミだし・解体作業・
養殖用の牡蠣のイカダ作り・枯れ木の伐採・・・・・また何でもやりに行きたい!
ただ 今回の地震と豪雨は・・・焦りましたね・・・
ほんの少しでも
みんなが
出来ることを出来るだけ!
このスタンスを忘れずにみなさん行きましょうね~
現地に行くことが大切なのではなく身近で出来る後方支援の大切さ!
身に染みて感じた日々でした。
サポートしてくれたスタッフ達に 感謝!
それと・・・CJ会のメンバーの方へ
一緒にボランティアに行きたい人はお声かけください!
鬼軍曹喜んで参上しますので。。。
2011年7月28日木曜日
ビジネスは戦いである、という思い込みを手放す

天野敦之ブログより
私たちの多くは、ビジネスは戦いであると思い込んでいます。
会社経営の中に戦争で用いる軍事用語が飛び交っているのも一因でしょうが、
そもそも会社経営とは競合に如何に勝つかを考えることだと、何の疑いもなく思い込んでいる人が少なくありません。
しかし、会社経営の本質が何であるかを考えれば、
会社経営=競争に勝つという発想が浅薄で一面的であることにすぐに気付くはずです。
会社経営の本質は、価値を創造することです。
お客さまにとって価値あるものを創造すること。
そのために価値創造の担い手である社員一人ひとりの可能性が最大限発揮される場を創ること。
そもそもある会社が競合に勝つかどうかは、お客さまからすればどうでもいいことです。
お客さまは、自分の本質的なニーズが満たされる価値ある商品やサービスを適正な価格で提供してくれるかどうかに関心があるのであって、その会社が他社に勝つか負けるかはどうでもいいことなのです。
それなのに他社に勝つことにばかり貴重な資源を費やすことは、
経営判断としても非合理的であると言えるでしょう。
他社に意識を向けるのではなく、お客さまに意識を向けることです。
私自身、コンサルティング業や税理士業を営んでいますが、競合他社を意識したことはありません。
意識しているのは、
お客さまにとって最高の価値をいかに創造するか、
そのために社員にいかに輝いてもらうか、ということであり、
競合他社のことは考えたこともありません。
そうすることで比類無き価値を創造することができ、
結果的に他社を意識することなく幸せな経営を実現できるのだと思っています。
★「哲学や精神論など、経営に直接役たつものではない」という意見を持つ経営者が未だに多いことに驚く。
それは「哲学」や「精神」の本質や機能を知らない人間であり、
原理がなく、あっても「絵に描いた餅」状態である。
「哲学」は、近視眼だと判らない本質的な問題を問う事で、
いつ何時初見の問題が飛び込んできても慌てず騒がず対処できる知のトレーニングである。
「精神」は、気質の問題ではなく行動の様式である。
経営者・企業家精神の原理とは、変化を当然のこと、さらには健全なこととすることである。
それに対峙し、むしろ楽しむためには、自己の探求をし続けることが不可欠である。
「自己実現」や「自己達成」は自己満足の域を超えるものではない。
時代の要請に応え、その一部となりたいのならば、
「自己満足」するな、「自己探求」せよ。
A.I
2011年7月25日月曜日
宮里藍ちゃん今年初勝利 日本女性強し
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