「違和感を大事に」というコラムに強く同意した。
「わかりやすく」が求められることが多いが、そこは誤解されがちである。
「わかりやすい」が、実は自身の既存の価値観やパラダイムの単なる承認であることのいかに多いことだろうか。
「こころ」の機微を気にする人間は、「こころ」の機微を解さない人に対して、
微妙なこころもちに配慮して欲しいと、激しく願うものだが、
実はそれは欲であるという側面に気づくことも大切である。
繊細すぎるその感性。
でも、だからこそ、人の「こころ」に寄りそいたいと思えるのであり、それは長所である。
今の自分に問うてみたい。
本当は自分は何を求めているのですか?
実は、自分の持続する満足を求めているのであって、
その満足を正義や正論、そして真理とかいうような観念や、体裁の良い言葉で覆っているだけなのではないか?
そう自身と対峙しながら、今後は隣人との対話に臨んでみてみよう
神が人間を多種多様に分かったのは、相互に扶助させようとするためである。
Lucius Annaeus Seneca
A.I