【イギリス人】紳士は飛び込むものです!
【フランス人】海には飛び込んではいけません!
【イタリア人】美女が飛び込みました!
【ロシア人】ウオッカの瓶が流されました!
【ドイツ人】飛び込むのは規則となってます!
【中国人】美味しそうな魚が泳いでいます!
【北朝鮮人】今飛び込めば亡命できます!
【日本人】もうみんな飛び込みました!
国民性(民族性)が顕著で秀逸であるが、この風刺から自国と自身について何を読み取り、理解し、今後よりよく生きるための指針を設計できるだろうか?
国際化とは、TVで諸外国の番組が見れることでも、店頭に海外の製品が陳列されることでも、気軽に海外旅行に行けることでも、ネット社会が普及することでもない。
それはあくまでも手段であり、他国の様々な情報(経済・政治・法律・文化・宗教・民族・気候・風土・伝統等)や知識の蓄積が、必ずしもを理解していることに繋がるとも思わない。
では、そこに及ぶまでもなく、よりよく生きるための指針設計のために、まずは自国や自身について、我々はどれだけのことを理解(情報や知識ではなく)しているだろうか?
たかが100年前のニッポンでは、「斬捨御免」と庭先や道端で斬捨てられる光景があった。
この20年のニッポンのライフスタイルを職業から振り返ってみても、大企業への就職の時代があった。外資への転職があった。起業という選択肢があった。そして成長に蓋をされた現在、ノマドという選択をするという合理性があるといわれている。
※その根拠については、次の機会があれば詳しく!
グルーバリゼーションという名のもと、世界が身近に、世界は繋がっている、と言われても、なかなか腑に落ちないのではないか。
でも、自己の成立には他者と環境なくしては成しえない。些細なことが想像以上に(恐ろしいまでに)、自身と全体にリンクしているのは間違いないのだ。
これを、日々の生活において、どれだけ意識・自覚して行動しているであろうか?
人生はすべて「関係」に始まり「関係」に終わる。
部屋の片隅に坐って、自分自身について瞑想していても何もならないし、人間は、独りでは存在できないように創られている。
人間は、他者や事物や観念との関係においてのみ存在しうるのである。
誰も個人の権利と自由を守り、国家もそれを維持するためのものと考える。
日本国憲法でいうならば、それは憲法第十三条にあたる、
個人の尊重と幸福の追求の自由であり、これは公共の福祉に反しないかぎり「最大」に尊重されると記されている。
自分と同じように、他者もまた幸福を追求しながら生きている。
その関係性において、自身の権利と自由を守り幸福を追求するためには、並行して他者と環境を生かす術を見出さねばならない。
国際政治の舞台に例えるならば、
「戦争」ではなく「対話」による解決を考える時、まず正確に自分のポジション(位置)を理解していなければ、コミュニケーション戦略がたたない。それでは「対話」が前に進まず、結局「力」(武力・経済力)による解決にならざる得なくなる。
家庭や個人の社会活動、企業の経済活動。身近なところではCJ会の定例会議でも同様である。
では、自分のポジションを作り上げているファクターは何なのか?
「札束」を積むより「信用」を積め
これは、21世紀のテーマである。
経営においても、これからじわじわと起こる資本主義という巨大システムの進化において、特に重要なキーワードである「信用」の意味を再考せねばならない。
お金は所詮、人間が経済活動のために信用を数値化して、価値を仲介するために作り出した道具に過ぎない。しかも今や、その発行主体は各国の中央銀行に限らず、信用があれば、企業そして個人も「お金」を発行できる。
そのためには、個人として信用され、それを客観視できる状態をつくることにより、新たな「信用」を創造・発行することができる。
「信用」を創造するために、「信用」を丁寧に考え、咀嚼し、行動に結びつけていくことこそが重要なのだ。
そのために、ここであらためて「己を知る」作業が求められるのではないか…
これを単なる「精神論」や「説教ごと」そして「きれいごと」と感じてしまったら…それは本当に「ご愁傷様です」と言わざるをえない…
その19世紀型の思考回路のOSのバージョンアップを計らねばならない。
【最後に】大阪人に対して、難破船の船長は....
阪神が優勝しました!!
A.I